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Thursday, February 14, 2013

「泣くな、はらちゃん」第2話の感想



あ、長いです。一応、言っときます。




泣くな、はらちゃん  第2回  20130126 投稿者 kate634




さて、本格的に恋愛ドラマが展開されるのはこの第2回からなのですが、まず、冒頭のマンガ世界のやりとりが面白いですね。第1回で高らかに歌い上げられていた「私の世界」ですが、そればかり聴かされて「マンガの世界」の住人たちはやや食傷ぎみ。痺れを切らした笑いおじさん(甲本雅裕)ははらちゃんにこんな問い掛けをします。


笑いおじさん 「だいたいさ、その、そっちの世界に行って得たものって何だ?」
はらちゃん 「え・・・」
笑いおじさん 「神様は相変わらずご機嫌斜めだし。」
はらちゃん 「あ、でも、歌とメロディを・・・」
笑いおじさん 「そんなもんじゃ世界は変わらないんだよ!」


甲本雅裕(ミュージシャン・甲本ヒロトの兄)にこのセリフを言わせるのが凄いw まぁ、笑いおじさんはかまぼこを食べたかっただけのようで、その直後、素直に「かまぼこ食ってみてえ」と泣き笑いをします。それに釣られる格好で、あっくんは「車に乗ってみたい」、マキヒロは「犬を見てみたい」とそれぞれに「外の世界」への憧れを語っていくわけですが、その様子を見ていたユキ姉がこう語りかけます。


ユキ姉 「世界の秩序が乱れちゃったねぇ。でも、それは仕方のないことなんだよ、はらちゃん。違う世界を知るってことはさ、素敵なことだけど、つらいことなんだよ。」


いいセリフです。ユキ姉の過去を暗示させる内容でもあり、同時に、これは恋を言い表したものでもあるのでしょう。恋とはそれまでの自分を超えることであり、ときに、捨てることでもある。恋は「甘い」と形容されることが多いけれども、でも、同時に「つらいこと」でもあります。(ポエムってます


(苦しそうに胸を押さえるはらちゃん)
ユキ姉 「どうした? はらちゃん?」
はらちゃん 「いや・・・、自分でもよくわからないんですけど、なんか、胸のこのあたりがムズムズっていうか、痛いっていうか・・・、なんか変な感じなんですよね。神様、あ、いや、越前さんのことばかり考えてしまうんです。会いたくなっちゃうんですよね。越前さんに会いたくて仕方ないんです。」
ユキ姉 「まさか・・・」


はらちゃんは越前さんのことが好きになってしまったわけですね。ただ、よくよく考えてみると、どのタイミングで好きになったのか、はっきりとはわからないんですよね。第1回の神社における越前さんとのやりとりから「なにか」を感じたのかもしれませんが、まぁ、でも、恋なんてそんなもんです。どこで、何が理由で、その人を好きになったのか、そんなことはいちいち覚えてられません。(ポエムってます


そして、再び「外の世界」へ出るはらちゃん。親切な田中さんが「マンガ」の存在を教えてあげるシーンではらちゃんはこう言います。


はらちゃん 「これがマンガ・・・、なんか、懐かしい感じがしますね。」


「懐かしい」なんて語彙をいつ覚えたんだ、はらちゃん・・・という気がしないでもありませんが、ともあれ、はらちゃんは「マンガの世界」の住人なので何かを感じるわけです。そのあと、はらちゃんは越前さんに会うためにふなまる水産の中へ入っていくのですが、そこでパートリーダーの矢口さんははらちゃんにこう呼びかけます。


矢口さん 「こないだみたいに、神様を怒らせちゃダメだってことよ。どうも、はらちゃん。」


当たり前と言えば当たり前ですが、矢口さんだけは最初からはらちゃんのことを「どこかで見たような気がする」と引っかかりを覚えており、第1回のラストでは本屋さんで矢東薫子全集を手に取って確認までしています。それを踏まえて考えると、ここではっきりと「どうも、はらちゃん」と言っているのは改めて挨拶をしているようなものですかね。それも、自覚的に。また、「神様を怒らせちゃダメだってことよ」と、はらちゃんにも理解できるようにマンガ世界の視点で忠告を与えているのも印象的です。この時点で、矢口さんだけは事の次第をだいぶ理解しているのでしょう。


で、肝心の越前さんですが、こちらはテンションが低いままでして、やる気なさそうにかまぼこ新作募集のポスターを描いています。こんなイラストです。




















紺野さん 「イヤならさ、イヤって断れば良くない? それなのに、いかにも『こんなもんでしょ?』みたいな絵、描いちゃってさ。」


ズキッ! わたしは画力に自信がないのでこのセリフに敏感に反応してしまうのでありますが、ま、それはいいとして、紺野さんはある種のヤンキーキャラとして登場しているのでしょう。もちろん、田中さんのことが好きな紺野さんにとって越前さんは「一方的な恋敵」でもあるので、そういった感情も入ってはいるのでしょうが、このドラマは設定からして文化系寄りなので、そこにカウンターとして置いているが紺野さんなのではないか、と。「アメトーク」におけるホトちゃんみたいなもんですね。「なんでなん?」と言わせることで、共感しづらい視聴者も引き込むのがその役割。


紺野さん 「不愉快です。わたし、あなたみたいな人がいっちばん嫌い。」
越前さん 「えっ?」
紺野さん 「その顔も嫌い。イライラする。」
越前さん 「あの、わたし、何かしましたっけ・・・」
紺野さん 「何もしないのがイライラするんですよ!」
越前さん 「すみません、意味がわからないです・・・」
紺野さん 「世の中のことすべてに、『わたしは関係ないですぅ』みたいな顔してますよね!? 『わたしなんか、そんな』『わたしなんて、全然』『わたしなんて、とんでもない』『わたしなんて』『わたしなんて』『わたしなんて』・・・、そのくせ、実は自意識バリバリ強くて、失敗したりして傷つくのが嫌なだけなんですよね。そういうヤツに限って、自分が大っ好き。」
越前さん 「なんで、そんなにあたしに攻撃的なんですか・・・」
紺野さん 「ちゃんとやってください! やるんなら、ちゃんとやれって言ってるんです! 嫌なら断れ、やるんならどんなことでもちゃんとやってください! かまぼこ新作募集ポスターでも、ちゃんとやってください!」


まー、越前さんみたいなタイプが嫌いな人たちの「声」を代弁しているかのようなセリフ回しになっているわけですが、でも、わたしが好きなのはそのあと。


紺野さん 「わたしもやるから。」
越前さん 「何を?」
紺野さん 「かまばこポスターです。宣戦布告、勝負です。」
越前さん 「えっ・・・?」
紺野さん 「一度ぐらいは本気で勝負しなさいよ。」


このドラマは言いっ放しがないんですよね。はらちゃんも第1回で


はらちゃん 「わたしは心から、あなたにもう少しだけでいいから幸せになってもらいたいと思いました。越前さんが幸せになるためだったら、わたしは何でもします。お願いします! 自分のこと、どうでもいいなんて言わないでください。」


・・・と、ただお願いするのではなく自らも行動すると言っている。紺野さんもまた、ただ文句を言うだけではなく、「勝負」というカタチを取りつつ、越前さんを促している。紺野さん自身もこうやって吹っかけて部屋から立ち去ったあと、ドアの向こう側で「あー、やっちゃった」という表情を見せていますから、これはこれで勇気のいる行動だったわけですね。ま、ただ、越前さんは


越前さん 「何を・・・? ちょっと、紺野さん、その勝負お断りします。しませんよ・・・、わたしはそんな意味のないこと・・・。」


と相変わらずのローテンションなのですがw でも、はらちゃんがそこに入っていきます。はらちゃんは空気を読みませんから「何か気まずい雰囲気だなー、そっとしておこう」とか考えませんw


はらちゃん 「神様、いやっ、越前さん。」
越前さん 「何ですか。」
はらちゃん 「戦い、受けて立つんですよね? 悪魔さんとの。」
越前さん 「はい?」
矢口さん 「神と悪魔の戦いかー。」
越前さん 「戦いなんてしませんよ・・・」
はらちゃん 「それはダメです、越前さん。それはダメですよ。わたしもあのかた、悪魔さんに同意見です。やるんだったら、ちゃんとやりましょうよ。越前さん、あなたは神様だからご存知かもしれませんが、わたしは何度も言ってますよね。『仕事なんだからちゃんとやろうよ』って。『みんなやりたくてやってるわけじゃないんだから、勤務時間だけはちゃんと仕事しようよ』って、何度もわたし、そう言ってるじゃないですか。」
越前さん 「言ってるじゃないですか、って・・・」

























越前さんはパートのおばちゃんたちに対する不満として「ちゃんとやりましょう」とグチっていた。そして、それと同じことを紺野さんから言われたのに、越前さん、あなたはその「戦い」から逃げるのですか? そう、はらちゃんは痛いところを突いているわけですね。ま、はらちゃん本人はあまり深く考えていないんだろうけどw


はらちゃん 「越前さん、ちゃんとしましょうよ。それから、わたしはこうも言っていますよね。『わたしは本気を出してないだけなんだ』って。」
越前さん 「なに言ってるんですか!? もう、いいです! わかりました!」
(越前さん、描きかけのポスターを破いてしまう)
越前さん 「ちゃんとやります。描き直します。それでいいですか。」
はらちゃん 「はい、ありがとうございます。」


ここの『わたしは本気を出してないだけなんだ』というのは本編で紹介されているマンガには出て来ていないセリフですかね。紺野さんの指摘の通り、越前さんは自意識と自己愛がとても強いのでしょう。ま、誰だってそうですけどね。単に、表現方法が違っているだけで。


んで、このあと、はらちゃんの「愛の告白」があるわけですが、そこは見てもらったほうが早いですから書き起こしはしないでおきます。はらちゃんは「恋」という言葉を覚え、そして、交番で矢口さんから自身の恋が「片想い」であると教わります。


はらちゃん 「片想いって、悲しいんですね・・・」
矢口さん 「ふふ、そうとは限らない、美しいんだよ、片想いは。」
はらちゃん 「うつくしい?」
矢口さん 「この世界のほとんどの想いは片想いなんだ。世界は片想いで出来てるんだよ。」
はらちゃん 「はぁ・・、そうなんですね。大事なものなんですね。」
矢口さん 「そうだねっ。」
はらちゃん 「大切にしますっ、片想い。」


この直後、越前さんが自宅に戻ってマンガのノートを開くことではらちゃんは「マンガの世界」へ引き戻されてしまうわけですが、それを目の前で見ていた矢口さんは大きく驚いたりはしません。初めてここで、矢口さん=矢東薫子であると描かれているわけですね。


ともあれ、自分の描いたマンガとそのマンガの中から出てくるはらちゃんに励まされる格好で、越前さんは「ちゃんと」ポスターを描きます。そして、それが一段落したところで、大切にしていた矢東薫子全集が無くなっていることに気づいて、再び出て来たはらちゃんが一緒に探しましょうと促します。


越前さん 「いいの、いいんです。」
はらちゃん 「よくないです!」
越前さん 「好きなんですよね? そのマンガに片想いしてるんですよね? 美しいんです、大切なことなんです、片想いは。教えてください、探しに行きましょう。」


矢口さんに教わったこと、そのまんまなわけですが、素直なほうがいいんです。ひねた男性よりも素直な男性のほうがいいんです。そう思いません?(誰に聞いてるんだ


で、矢東薫子全集を探しに夜の町を行くふたり。走り慣れてないせいか、膝に手をついて息を切らせている越前さんの手を取って、はらちゃんはこう言います。


はらちゃん 「走るのが遅いんですね、越前さんは。小さいし、足短いし。」


素直なんです、悪気はないんですw そして、はまゆう書房で「矢東薫子全集」を見つけたはらちゃんが軽く騒動を起こしつつも、結局は越前さんが自腹で買い戻してこの件は解決します。3万円といえば大金なので、一瞬ためらいを見せる越前さん。でも、再び手にしたとき、嬉しそうに安堵のため息をもらします。


はらちゃん 「今の、なんですか?」
越前さん 「ちょっと、黙ってて。」

















ま、ずっと黙ってたわけですがw いいんです、男性は素直なほうがいいんですw あの暗い子、越前さんもここで初めて笑みを見せます。


















なんでしょう、「クララが立った」的な妙な感動がありますw



















この回のクライマックスは夜の町が美しいです。なんてことのない、地方都市の夜ですけど、でも、美しい。そして、演出も素晴らしい。「私の世界」と「初恋は片思い」は同じメロディーを持つ曲なわけですが、ここでは「初恋は片思い」が流れます。


「初恋は片思い」
こいのうたとか きらいなんだよね どれもみなおなじ
こいのうたとか きらいなんだよね わからない
こいのうたとかうたいたくないよね ほかにもあるでしょ?
こいのうたとかうたいたくないよね にあわない
こいするためにうまれてきたとかありえない そう おもっていた
でもこいをした でもかたおもい あなたのことしかうたえない
でもこいをした でもかたおもい そんなじぶんにわらう


このドラマに出てくる「片想い」は


はらちゃん → 越前さん
田中さん → 越前さん
紺野さん → 田中さん
玉田工場長 → 矢口さん


と、いくつかあるわけですが、この曲に合わせて、はらちゃん、田中さん、紺野さんの「片想い」が描かれていきます。矢口さんは「片想いってのは美しいものなんだよ」とはらちゃんに教えていましたが、それは片想いがいずれは終わるからですかね。終わりがないとしたら、それはもはや「片想い」ではなく、執着ですし。この夜の町のシーンで、田中さんの「片想い」はなかば終わりを迎えるのでしょうし、紺野さんの「片想い」も「想い」だけではなく行動へと変化していく。すべてがハッピーエンドとなるわけじゃないけど、でも、終わるから「次」に進める。(ポエムってます


で、主人公のふたり。はらちゃんは「離れることのつらさ」をストレートに言葉にします。


はらちゃん 「越前さん、片想いって涙が出るものなんですね。わたしは、あなたと離れることが苦しくてつらいです。だって、次、いつ会えるか、わからないじゃないですか。わたしは、恋してる人に自分から会いに行くこともできない。越前さん、胸が苦しいです。痛いです。どうか、行かないでください。」


越前さんは「何なの、それ!」と言いながら小走りで去って行ってしまうのですが、でも、立ち止まって、そして、はらちゃんのところへ戻ろうとします。



















越前さんが初めて自分からはらちゃんのほうへ近づいていく。「片想い」が「片想い」ではなくなる瞬間。だからこそ、このシーンはスローモーションで描かれているのでしょう。


んで、まぁ、この夜の町をシーンを見て、「これはいいドラマだわ」と思ったわけですが、こういうふうにシンプルに恋を描くには何らかのギミックが必要になるのでしょうね。現実的なドラマだったら、あそこまでストレートなセリフは出てこないし、出すわけにもいかない。でも、はらちゃんは自分にわかってることだけを口にするし、見ている側もそれを了解しているので、そのままの気持ちを描くことが出来る。「マンガの世界」の住人という不思議な設定ではあるけども、そのおかげで恋愛ドラマとしての純度は極めて高いものになっているのかなー、と。


「わたしは、あなたと離れることが苦しくてつらいです。だって、次、いつ会えるか、わからないじゃないですか。」


なんてことないセリフですが、でも、これこそが恋だよなー、と。





















そして、最後にモノクロの世界だったマンガに初めて赤いハートマークが加えられる。それを見つけた矢口さんは越前さんがはらちゃんを描いていることを知る、と。脚本、よく出来てますね。


まぁ、なんていうのかなー、恋愛ってこんなものですよね。見た目でもない、話術でもない、結局は相手を思ったうえで行動すること。はらちゃんが矢東薫子全集を探しに、一緒に夜の町を走ってくれた。そして、越前さんの大切なものを取り返そうと懸命に行動してくれた。そのほうがよっぽど相手の心に訴えかけるチカラがあるんです。言葉だけが愛を語るわけじゃないってことですね。(ポエムってます




(つづく)

Tuesday, February 12, 2013

「泣くな、はらちゃん」第1話の感想





泣くな、はらちゃん #1 投稿者 yamutya1




第1回。正直なところ、この回はまだまだイントロで恋愛ドラマそのものは始まっていません。あと、パートさんとのやりとりがちょっとだけドンヨリするので、そこらへんも気が重いですね。けど、あとになって録画で見直してみると、面白いところもたくさんあります。
















まずは、冒頭のユキ姉の「この世界とは別に、神々の世界があるんだよ」というくだり。ここで初めて、マンガの世界の住人たちは「外の世界」の存在を知らされるわけですが、もちろん、まだまだ半信半疑。


はらちゃん 「どんなところなんですか、そのもう一つの世界っていうのは?」
ユキ姉 「教えるのはやめとくよ。知ると、今、自分がいる世界が余計イヤになるから。」


すべてを教えないのはドラマのお約束からそうしているのでしょうが、ユキ姉に何か「過去」があるんだなーとわかるやりとりでもあります。ま、ユキ姉は物語の鍵を握るキャラでしょうしね。(もうひとりは矢口さん)


んで、越前さんの弟がノートを捨てて、はらちゃんが「外の世界」に出て来て、「田中」さんにふなまる水産へ連れて行ってもらうわけですが、個人的には途中で海を見てはらちゃんが微笑むシーンも好きです。海はいいもんです。

















で、越前さんとの最初の出会いがあって、矢口さんが交番に顔を出してはらちゃんにヒントを上げたりするわけですが、越前さんのほうは仕事からの帰り道で

越前さん 「わたしが幸せになろうが、世界なんて変わらないわよ。」

とセカイ系を真っ向から否定・・・じゃなかった、まぁ、テンションの低さを見せつけてくれるわけです。はらちゃんは「(マンガの)世界」を明るくするために「外の世界」にやってきたわけですが、そこでは「神様」であるはずの越前さんが「世界なんて変わらない」と言ってるわけですね。はい。


で、いったん、はらちゃんが「マンガの世界」に戻るわけですが、「いやぁ、神様に会っちゃったなー」とはしゃぐはらちゃんをユキ姉はどこか悲しげで、それでいて、少しだけ羨ましそうな表情で見つめます。


はらちゃん 「わたしはねぇ、神様に自分の気持ちをぶつけました。どうか幸せになってください。そうでないとわたしたちの世界は曇ったままなんです。どうか世界を明るくしてください、と。」
ユキ姉 「そう・・・言ったの?」


ま、全然、明るくならないわけですが。こんな感じで。





































一応、越前さん自身も「やつあたりだね、これじゃ、ただの」と反省はしております。そして、岸壁で矢東薫子全集を読んでバランスを取る。そう、海はいいもんです。で、神社のくだり。(あ、ここから、さらにダラダラ書きますよw)


はらちゃん 「あっ! あ、神様! 神様! ちょっと待ってください! お話ししたいことがあります、神様!」
越前さん 「あたしは神様なんかじゃありません!」
はらちゃん 「そんな・・・、じゃ、なんとお呼びすれば。」
越前さん 「なんと、って。越前さんでいいです。」
(越前さん、立ち去ろうとする)
(はらちゃんが回り込んで)
はらちゃん 「神様! また、なんかイヤなことありましたか。」
越前さん 「え?」
はらちゃん 「神様がイヤな気持ちになると世界は曇るんです。世界は大荒れでしたから。」
越前さん 「なんなんですか、それ。」
(越前さん、再び立ち去る)
(はらちゃん、再び回り込んで)
はらちゃん 「あ、ちょ、ちょ、神様。お願いします、どうしても謝りたいことがあるんです、お願いします。」
越前さん 「何をですか!?」
はらちゃん 「わたしは、自分のことを、自分の世界のことだけを考えていました。そして、わたしは神様にお願いをした。どうか幸せになってください、そして、世界を明るくしてください、と。・・・でも、それは自分勝手なお願いなのかなと思いました。」
越前さん 「だからぁ・・・」
はらちゃん 「だから! 神様が幸せになるためだったら、わたしは何でもします。この命を投げ打っても構わない。」
越前さん 「いや、だから! わたしはそういう人間じゃないって言ってるじゃないですか。世界がどうとか・・・、いいですか? わたしはね、嫌いなんですよ、そういう自分の能力とか過信している人間が。世界に何かを発信したいとか言っちゃってる、あの人みたいなのがいちばん・・・。わたしはそういう世界を動かすような人間じゃないし、そういう無意味な自惚れもありません。」
はらちゃん 「えっ? 悪魔さんがなにか・・・?」
越前さん 「悪魔? 悪魔だか何だか、どこの誰だか知りませんけど、こんなさぁ、わざわざ誰もいないような場所を選んで、下手な歌、歌っちゃって、意味がわからない! 自信ないなら歌わなきゃいいのに!」
はらちゃん 「神様、それは違います。悪魔さんの歌は素晴らしいですよ。弦は6本あるし、メロディーがあります。ご存知ですか? ギターには弦が6本あって、歌にはメロディーがあるんです。」
越前さん 「はぁ!? とにかく、わたしは、あなたが言ってるような人ではありません。特別な人間じゃないんです! ちっぽけなどうでもいい存在なんです。買いかぶりはやめてください。迷惑です。」
(はらちゃんから立ち去る)
(立ち去ろうとする越前さんに向かって)
はらちゃん 「越前さん、あなたは特別な存在です!」
(はらちゃん、越前さんの前に回り込んで)
はらちゃん 「わたしは、こちらの世界であなたと出会って嬉しかった。わたしたちの神様は美しくて素敵な女神だった。ほんっとうに嬉しかったんです。わたしは心から、あなたにもう少しだけでいいから幸せになってもらいたいと思いました。越前さんが幸せになるためだったら、わたしは何でもします。お願いします! 自分のこと、どうでもいいなんて言わないでください。」
(越前さん、少し戸惑いながら)
越前さん 「あなた誰なんですか?」
(はらちゃん、にっこりと笑って)
はらちゃん 「はらちゃんです!」
越前さん 「はらちゃん?」
はらちゃん 「はい!」


まー、その、なんていうか、他の恋愛モノにあるような「あなたがあなたのことを嫌いになっても、わたしはあなたのことを嫌いにならない」じゃないんですよね。それはそれでわかるんですけど、結局、それって「そんなあなたを好きな自分のことが、実は一番好き」だったりするし。ここの神社のくだりはそうではなくて、


「あなたのことが好きだから、あなたにもあなたを好きになってほしい。そして、そのためだったら、何でもします。」


という、好きだからこそ行動しますという決意なんですよね。相手のための行動があるからこそ「お願いします! 自分のこと、どうでもいいなんて言わないでください。」というセリフが活きてくるわけで。


ともあれ、大きなきっかけを与えたのは矢東薫子の正体であろう矢口さんで、そのあと、神様(=越前さん)がマンガのギターに弦を書き足し、悪魔さん(=紺野さん)から学んだメロディーに乗せて「私の世界」がはらちゃんによって初めて歌われます。長いあいだ眠っていた「世界」はこうして歌によって復活。りばいぶですよ、りばいぶ。


「私の世界」
せかいじゅうのてきにこうさんさ たたかういしはない
せかいじゅうのひとのしあわせを いのります
せかいのだれのじゃまもしません しずかにしてます
せかいのなかのちいさなばしょだけ あればいい
おかしいですか? ひとはそれぞれちがうでしょ? でしょでしょ?
だからおねがいかかわらないで そっとしといてくださいな
だからおねがいかかわらないで わたーしのことはほっといて


歌われている歌詞は「かかわらないで」だけども、この歌が復活するためには「関わり合い」が必要だった、と。それは「外の世界」に出る決意をしたはらちゃんはもちろんのこと、はらちゃんにアドバイスをした矢口さん、メロディーを伝えた紺野さん、そして、マンガに弦を書き足した越前さんのすべてが関係している。


ユキ姉 「教えるのはやめとくよ。知ると、今、自分がいる世界が余計イヤになるから。」


冒頭でこう言っていたユキ姉さえも、はらちゃんが「外の世界」へ行く2回目のときには「はらちゃん! 探すのよ! 世界の裂け目を!」と促している。そうやってみんなが「関わり合い」を持つことで、「ちいさなばしょ」であるマンガの「世界」も、越前さんたちの過ごす日常の「世界」も、その輝きを取り戻す。つまり、最後に歌われる「私の世界」は「かかわらないで」と言いながらも、関わり合いの大切さを訴える「大いなる反語」であるのかなー、と。第1回は恋愛ドラマの要素はほとんどないのですが、舞台としての「世界」が再生されるエピソードとして、やはり、重要な回なのでしょうねー。






海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む
海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら
海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国




・・・はぁ、書いた、書いたw



Saturday, February 9, 2013

「泣くな、はらちゃん」のエンディングについて



Twitter でダラダラダラダラと書いてしまいそうなので、ブログで書きます。だから、これから書くことはダラダラしています。単に、わたしの感想を書くだけです。なんで書くかと言えば、それは書きたいからですw (※これを書いているのは、第4話終了の時点です。そこんとこ、よろぴこ。)




【エンディングのアニメーション】







で、エンディングのアニメーション。これ、けっこう意味があるんじゃないかなーと思ってます。わたしの考えは以下の通り。


(ドラゴンの手前) → 矢東薫子のマンガ家人生

(ドラゴンの炎で灰になる) → 矢東薫子の挫折

(灰から蘇ったあと) → 越前さんとはらちゃんの恋


パートリーダーの矢口さんが矢東薫子の正体であることはほぼ確定なわけですが(エンドロールでも一番最後に来ている)、彼女は第3話で「わたしはもう人生という戦いから降りた」と言ってます。つまり、はらちゃんはそんな矢東薫子と越前さんのふたりを繋ぐキャラクターでもある、と。さて、それを踏まえたうえで。







































涙が落ちてはらちゃんが出てくる。この涙を流しているのは越前さんにも見えるし、同時に、矢東薫子でもあるのかもしれない。ま、どっちでもあるのかなー、と。








































ギターの弦が切れる。ここの意味はまだよくわからないのですが、はらちゃんのギターは第1回で3本だったんですよね。また、矢東薫子の原作のほうから弦が3本だったのか、それとも、越前さんがそう描いたのか、これまたわからない。ただ、このアニメーションにおいては、はらちゃんはドラゴンの炎までの前半部分ではギターは弾いてません。
















で、ここから矢東薫子のマンガ人生を描いているのではないか、と。
















これは原稿の山のモチーフ。
















エンピツ。
















サボテンに見えるけど、これは人じゃないのかなー。トゲは批判や逆境のメタファー。
















これは岩ですが、原稿用紙を丸めたものにも見えます。上から落ちてくるので編集者にボツにされた原稿なんかなー、と。





























でも、それにもめげず、がんばります。しかし・・・
















ドラゴン。怪物というのは不条理の象徴。何をどうしたところで打ち勝つことの出来ない敵。
















そりゃ、こんな表情になります。


















そして、ドラゴンの吐く炎に包まれて・・・

















灰となってしまいます。これが矢東薫子の挫折。(何があったのか、それはわかんないです)


















そして、灰から蘇るはらちゃん。炎に焼かれてその灰から蘇るのは、フェニックスなどと同じで、死と再生の典型的なメタファー。
















でも、新たに生まれたはらちゃんの右手には赤い糸がついています。




















赤い糸の先には越前さんがいる。(ここからがドラマ本編)


















はらちゃん、可愛いよ、はらちゃん。


















最初のところで弦が切れたギターへ赤い糸を結びつけ、そこで初めてはらちゃんが歌う。



















悲しげな表情だった越前さんに微笑みが。この微笑みが矢東薫子にとっても何らかの喜びになるのではないか、と想像してますが、それは後述。
















最後はハートマークに包まれるふたり。すでにプロデューサーのかたがハッピーエンドと明言してるようなので、これはそのまま受け取って良いはず。




【ドラマのエンディング予想】


で、ドラマ自体のエンディングなんですが、わたしは越前さんが「二代目」矢東薫子になるんじゃないかと想像しています。第4話で越前さんの弟が「このマンガは金になるのか」という不純な動機ながらも、あちこちに「売り込み」をかけてるのはそこらへんの伏線なのかなー、と。んで、このエンディングのアニメーションに即して言えば・・・


(ドラゴンの手前) → 矢東薫子のマンガ家人生

(ドラゴンの炎で灰になる) → 矢東薫子の挫折

(灰から蘇る) → はらちゃんの再生(越前さんによる再生

(灰から蘇ったあと) → 越前さんとはらちゃんの恋

(ハッピーエンド) → 越前さんがマンガ家になってはらちゃんとずっと一緒にいる


まぁ、マンガの世界とこっちの世界を出たり入ったりするという感じかなー、と。越前さんがマンガ家になるタイミングとしては第9回あたりじゃないかと想像。これは劇中に出てくる矢東薫子全集が8巻までなので、「その先」を継ぐとしたら「9巻」になるので。で、消息不明とされていた矢東薫子がそのように復活して広く読まれることで、矢口さん(=矢東薫子)も救われることになるんじゃないかなー、と。




【はらちゃんが人間になるのか、ならないのか】


はらちゃんがピノキオ的に人間そのものになってしまうことはないような気がします。これはまったくもってわたしの個人的な考えですが、そもそも、あのマンガの世界のモチーフに、The Twilight Zone の Five Characters in Search of an Exit があるような気がするもので。








英語のみで恐縮なんですが、ま、簡単に言いますとある閉じた世界にいる「5人」のお話。「5人」と言うのは、はらちゃんのマンガ世界に出てくる人数と同じです。男性4人、女性1人という人数構成も同じ。はらちゃんに当たるのが、この作品では「外」に出ようとする major ですね。


そこがどこなのか、自分たちが誰なのか、何もわからない。そんな葛藤を描きつつ、ようやく「外」に出た major が見たのは・・・まぁ、これはネタバレになってしまうのですが、それを書かないと説明にならないので書いてしまいますが、これは実は箱のなかにいる人形たちなんですね。すんごいシュールな話なんです。でも、最後のナレーションできちんと救いが与えられています。


But this added, hopeful note: perhaps they are unloved only for a moment. In the arms of children, there can be nothing but love.


でも、最後にはそんな人形たちも子供たちに抱かれて幸せになるだろう、と。これを「泣くな、はらちゃん」に当て嵌めて考えると、長いこと忘れられていた矢東薫子のマンガが再び世に出ることになるかなー、と。もちろん、これはわたしの勝手な希望的観測なんですけどね。すんません。




【ユキ姉】


さて、エンディングのアニメーションでもうひとつ気になることがあります。それはキャストの表示順。ドラマや映画のキャストは最後のほうに大物俳優や物語の重要な人物を演じている俳優さんが並びます。「泣くな、はらちゃん」の場合だと・・・


光石研

奥貫薫

白石加代子

薬師丸ひろ子


・・・という順番になっています。薬師丸ひろ子が最後になっているのは、これはもう矢東薫子であるからだと思います。白石加代子は大物俳優としてのクレジットですかね。まぁ、そこまではわかるんですが、気になるのは・・・















やはり、この光石研(玉田工場長)、奥貫薫(ユキ姉)の並び。ユキ姉はこのドラマの重要キャラクターで、以前に「外の世界」に行ったことがあります。したがって、マンガ世界の住人のなかでユキ姉だけが違う反応を見せることも多いですし、ユキ姉も矢口さんと同じように「この世界がマンガである」ということについては、はらちゃんに対してはぐらかしてるんですよね。ただし、「外の世界」に行ったときの出来事はまだ語られていません。(第4回の時点で)


かたや、玉田工場長は単なる脇役にも見えるのですが、矢口さん(=矢東薫子)には尊敬にも似た感情を抱いています。まぁ、もちろん、単なる好意なのかもしれませんが、ただ、相手が矢口さんなので何かがあるのかなと思ったりします。そして、そう考えていくと、なぜ、「光石研、奥貫薫」の順番なのか、気になるわけです。


ユキ姉 「世界の秩序が乱れちゃったねぇ。でも、それは仕方のないことなんだよ、はらちゃん。違う世界を知るってことはさ、素敵なことだけど、つらいことなんだよ。」(第2話)


これがユキ姉と玉田工場長の「何か」なんじゃないかなー。あと、玉田工場長ってまだ下の名前がわからないんですよね。ユキ姉と玉田工場長の過去回があるとしたら、そのときに初めて下の名前で呼ばれる・・・とか。あと、第4回であっくんが「外の世界」に出て、第5回の予告ではマキヒロもそうなるようなので、


第4回 あっくん
第5回 マキヒロ


という順番で「外の世界」を体験するのかなー、と。あっくんは第4回で犬を怖いものと刷り込まれていますが、「犬が見てみたい」と言ってたのはマキヒロなんですよね。なので、第5回でマキヒロは可愛い犬を見て「やっぱり、犬は可愛い」と言うことになり、かたや、あっくんは「いや、犬は怖いものだ」みたいな掛け合いも生まれるのかなー、と。ま、それは細かいことなのでいいんですが、その先として・・・


第6回 笑いおじさん
第7回 ユキ姉


・・・といった順番で「外の世界」に出るんじゃないかなー。8回目までがひとつの区切りになっているとすれば、7回目あたりでユキ姉の過去回があってもおかしくなさそう。ま、すべて、わたしの勝手な予想ですけどねw




【リリック】


んで、最後。主題歌の曲名は「リリック」。英語で書けば Lyrics と言えば歌詞のことですね。「泣くな、はらちゃん」には劇中歌として二つの歌詞が出て来ます。


「私の世界」

せかいじゅうのてきにこうさんさ たたかういしはない
せかいじゅうのひとのしあわせを いのります
せかいのだれのじゃまもしません しずかにしてます
せかいのなかのちいさなばしょだけ あればいい
おかしいですか? ひとはそれぞれちがうでしょ? でしょでしょ?
だからおねがいかかわらないで そっとしといてくださいな
だからおねがいかかわらないで わたーしのことはほっといて


こちらは超ネガティブな越前さんの歌詞。(もしかしたら、矢東薫子全集からの引用なのかもしれませんが)


「初恋は片思い」
こいのうたとか きらいなんだよね どれもみなおなじ
こいのうたとか きらいなんだよね わからない
こいのうたとかうたいたくないよね ほかにもあるでしょ?
こいのうたとかうたいたくないよね にあわない
こいするためにうまれてきたとかありえない そう おもっていた
でもこいをした でもかたおもい あなたのことしかうたえない
でもこいをした でもかたおもい そんなじぶんにわらう


こちらは紺野さんが弾き語りで歌うラブソング。でも、この二曲ってメロディは同じなんですよね。はらちゃんが知ったメロディは紺野さんの歌なので。


同じメロディに乗せて二つの歌詞があるというのは実に面白い趣向で、これが最も活かされていたのは第2回の矢東薫子全集を探すくだり。あのときは紺野さんが神社で歌っていることもあって、流れているのは「初恋は片思い」のほう。そして、はらちゃんから小走りで去った越前さんが、でも、やはり、気になって見に行くシーンは恋の芽生えとして描かれていました。(あのシーンはスローモーションになっている)


ということで、閉じた世界と開いた世界という二つの歌詞が効果的に使い分けられているなー、と。また、歌の喪失と復活でもある、と。ということで、エンディングの「リリック」というタイトルのはそういったモチーフも含まれているのかなー、とか思ったりしたわけです。




はー、書きたいこと書いて、スッキリしたナリよ。




おしまい




Friday, January 11, 2013

どうぞどうぞ



ダチョウ倶楽部のネタに「どうぞどうぞ」というのがある。


ダチョウ倶楽部とは (ダチョウクラブとは) [単語記事] - ニコニコ大百科


A「なんでダチョウ倶楽部の大百科記事が無いんだよ!!」
B「そんなこと言うんだったら自分で書けばいいじゃないか」
A「やだよ、なんで俺がそんなの書かなきゃいけないんだよ!」
B「いいよいいよ、お前が書かないんだったら俺が記事書くよ」
C「いやここは俺が書くよ!」
D「待て、俺が書くよ!」
E「そんなこというなら俺も書くよ!」
F「私も書くよ!」

A「・・・じゃあ、俺が書くよ」

B~F「「「「「どうぞどうぞ!!」」」」」


面白いんだけど、見るたびに「生々しいよなー」と思う。


A「なんでダチョウ倶楽部の大百科記事が無いんだよ!!」
B「そんなこと言うんだったら自分で書けばいいじゃないか」
A「やだよ、なんで俺がそんなの書かなきゃいけないんだよ!」


ここは「言い出したヤツがやればいいじゃないか」論法。ありがち。


B「いいよいいよ、お前が書かないんだったら俺が記事書くよ」
C「いやここは俺が書くよ!」
D「待て、俺が書くよ!」
E「そんなこというなら俺も書くよ!」
F「私も書くよ!」


ここはうわべだけ参加意識を見せておくメソッド。


A「・・・じゃあ、俺が書くよ」

B~F「「「「「どうぞどうぞ!!」」」」」


そして、最後が「やりますと手を挙げたヤツにすべて押しつける」というオチ。ギャグ全体として見ても、結局は「貧乏くじを引いたやつを笑う」が落としどころなわけで、そう考えるとあまり笑えなくなってくる。なにより、「みんなで分担してやろう」という提案が最初から抜け落ちている。

これを続けていると、やがて「誰も何も言わなくなる」んだよね。まぁ、それが「みんなの望む世界」なら、それはそれで仕方ないとは思うけど。

それとも、表向きは「どうぞどうぞ」と言っていても、影でこっそりとAさんに協力するなんてことがあるのだろうか。まさかね。それは仮定として考えるべき条件ではないと思う。そういう人がいたら幸運とは言えるけども、影でこっそり協力するなんてことをみんなが行なえるなら、最初から「みんなで分担してやろう」と言えばいいだけのこと。そもそも、みんな、やりたくないから、誰かにそれを押しつけているわけだしね。

善意は怠惰の免罪符にはならないよ。

Thursday, January 3, 2013

水道橋駅



「無常ということ」 小林秀雄


或るひといはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候ふ、なうなうとうたひけり。その心を人にしひ問はれていはく、生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候ふ。なう後世をたすけ給へと申すなり、云々。」


これは「一言芳談抄」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見るようなふうに心に浮かび、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線をたどるように心にしみわたった。そんな経験は、初めてなので、ひどく心が動き、坂本でそばを食っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気にかかる。無論、取るに足らぬある幻覚が起こったにすぎまい。そう考えて済ますのは便利であるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。


「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の一つだったのであるが、この文を「徒然草」のうちに置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんなつまらぬことしか考えられないのである。依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさはどこに消えてしまったのか。消えたのではなく現に目の前にあるのかもしれぬ。それをつかむに適したこちらの心身のある状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかもしれない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。


確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮かび上がった文章をはっきりたどった。余計なことは何一つ考えなかったのである。どのような自然の諸条件に、僕の精神のどのような性質が順応したのだろうか。そんなことはわからない。わからぬばかりではなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落にすぎないかもしれない。僕は、ただある満ち足りた時間があったことを思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっているような時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかもしれぬ。そんな気もする。


歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前にはたいへん難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映ってくるばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられるような脆弱なものではない、そういうことをいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が考証家に堕したというような説は取るに足らぬ。


あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。『古事記伝』を読んだ時も、同じようなものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いたいちばん強い思想だ。解釈だらけの現代にはいちばん秘められた思想だ。そんなことをある日考えた。また、ある日、ある考えが突然浮かび、たまたまそばにいた川端康成さんにこんなふうにしゃべったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。


「生きている人間などというものは、どうもしかたのない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、しでかすのやら、自分のことにせよ他人事にせよ、わかったためしがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。そこにいくと死んでしまった人間というものは大したものだ。なぜ、ああはっきりとしっかりとしてくるんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな。」


この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れてこない。したがって、のっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕らが過去を飾りがちなのではない。過去のほうで、僕らに余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕らを一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物にとどまるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心をむなしくして思い出すことができないからではあるまいか。


上手に思い出すことは非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴のように延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方のように思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それはいついかなる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである。


坂口安吾 教祖の文学 ――小林秀雄論――

 去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かつたといふ話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンと一緒に墜落した由で、この話をきいた時は私の方が心細くなつたものだ。それは私が小林といふ人物を煮ても焼いても食へないやうな骨つぽい、そしてチミツな人物と心得、あの男だけは自動車にハネ飛ばされたり川へ落つこつたりするやうなことがないだらうと思ひこんでゐたからで、それは又、私といふ人間が自動車にハネ飛ばされたり川へ落つこつたりしすぎるからのアコガレ的な盲信でもあつた。思へば然しかう盲信したのは私の甚しい軽率で、私自身の過去の事実に於いて、最もかく信ずべからざる根拠が与へられてゐたのである。 

十六七年前のこと、越後の親戚に仏事があり、私はモーニングを着て東京の家をでた。上野駅で偶然小林秀雄と一緒になつたが、彼は新潟高校へ講演に行くところで、二人は上越線の食堂車にのりこみ、私の下車する越後川口といふ小駅まで酒をのみつゞけた。私のやうに胃の弱い者には食堂車ぐらゐ快適な酒はないので、常に身体がゆれてゐるから消化して胃にもたれることがなく、気持よく酔ふことができる。私も酔つたが、小林も酔つた。小林は仏頂面に似合はず本心は心のやさしい親切な男だから、私が下車する駅へくると、あゝ俺が持つてやるよと云つて、私の荷物をぶらさげて先に立つて歩いた。そこで私は小林がドッコイショと踏段へおいた荷物を、ヤ、ありがたう、とぶらさげて下りて別れたのである。山間の小駅はさすがに人間の乗つたり降りたりしないところだと思つて私は感心したが、第一、駅員もゐやしない。人ッ子一人ゐない。これは又徹底的にカンサンな駅があるもので、人間が乗つたり降りたりしないものだから、ホームの幅が何尺もありやしない。背中にすぐ貨物列車がある。そのうちに小林の乗つた汽車が通りすぎてしまふと、汽車のなくなつた向ふ側に、私よりも一段高いホンモノのプラットホームが現はれた。人間だつてたくさんウロウロしてゐらあ。あのときは呆れた。私がプラットホームの反対側へ降りたわけではないので、小林秀雄が私を下ろしたのである。

 だから私はもう十六七年前のあのときから、小林秀雄が水道橋から墜落しかねない人物だといふことを信じてもよい根拠が与へられてゐたのであつたが、私は全然あべこべなことを思ひこんでゐたのは、私が甚だ軽率な読書家で、小林の文章にだまされて心眼を狂はせてゐたからに外ならない。

 思ふに小林の文章は心眼を狂はせるに妙を得た文章だ。私は小林と碁を打つたことがあるが、彼は五目置いて(ほんとはもつと置く必要があるのだが、五ツ以上は恰好が悪いやと云つて置かないのである)けつして喧嘩といふことをやらぬ。置碁の定石の御手本通りのやりかたで、地どり専門、横槍を通すやうな打方はまつたくやらぬ。こつちの方がムリヤリいぢめに行くのが気の毒なほど公式的そのものの碁を打つ。碁といふものは文章以上に性格をいつはることができないもので、文学の小林は独断先生の如くだけれども、本当は公式的な正統派なんだと私はその時から思つてゐた。然し彼の文章の字面からくる迫真力といふものは、やつぱり私の心眼を狂はせる力があつて、それは要するに、彼の文章を彼自身がさう思ひこんでゐるといふこと、そして当人が思ひこむといふことがその文学をして実在せしめる根柢的な力だといふことを彼が信条とし、信条通りに会得したせゐではないかと私は思ふ。

 彼の昔の評論、志賀直哉論をはじめ他の作家論など、今読み返してみると、ずゐぶんいゝ加減だと思はれるものが多い。然し、あのころはあれで役割を果してゐた。彼が幼稚であつたよりも、我々が、日本が、幼稚であつたので、日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない。


「それは少しも遠い時代ではない。何故なら僕は殆どそれを信じてゐるから。そして又、僕は、無理な諸観念の跳梁しないさういふ時代に、世阿弥が美といふものをどういふ風に考へたかを思ひ、其処に何の疑はしいものがない事を確めた。「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。彼の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされてゐるに過ぎない」(当麻)


 彼が世阿弥の方法だと言つてゐるところがそつくり彼の方法なのであり、彼が世阿弥に就いて思ひこんでゐる態度が、つまり彼が自分の文学に就いて読者に要求してゐる態度でもある。

 僕がそれを信じてゐるから、とくる。世阿弥の美についての考へに疑はしいものがないから、観念の曖昧自体が実在なんだ、といふ。美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない。

 私は然しかういふ気の利いたやうな言ひ方は好きでない。本当は言葉の遊びぢやないか。私は中学生のとき漢文の試験に「日本に多きは人なり。日本に少きも亦人なり」といふ文章の解釈をだされて癪にさはつたことがあつたが、こんな気のきいたやうな軽口みたいなことを言つてムダな苦労をさせなくつても、日本に人は多いが、本当の人物は少い、とハッキリ言へばいゝぢやないか。かういふ風に明確に表現する態度を尊重すべきであつて日本に人は多いが人は少い、なんて、駄洒落にすぎない表現法は抹殺するやうに心掛けることが大切だ。

 美しい「花」がある。「花」の美しさといふものはない、といふ表現は、人は多いが人は少いとは違つて、これはこれで意味に即してもゐるのだけれども、然し小林に曖昧さを弄ぶ性癖があり、気のきいた表現に自ら思ひこんで取り澄してゐる態度が根柢にある。

 彼が世阿弥について、いみじくも、美についての観念の曖昧さも世阿弥には疑はしいものがないのだから、と言つてゐるのが、つまり全く彼の文学上の観念の曖昧さを彼自身それに就いて疑はしいものがないといふことで支へてきた這般の奥義を物語つてゐる。全くこれは小林流の奥義なのである。

 あげくの果に、小林はちかごろ奥義を極めてしまつたから、人生よりも一行のお筆先の方が真実なるものとなり、つまり武芸者も奥義に達してしまふともう剣などは握らなくなり、道のまんなかに荒れ馬がつながれてゐると別の道を廻つて君子危きに近よらず、これが武芸の奥義だといふ、悟道に達して、何々教の教祖の如きものとなる。小林秀雄も教祖になつた。

 然し剣術は本来ブンナグル練磨であり、相手にブンナグラレル先に相手をブンナグル術で、悟りをひらく道具ではなかつた。けれども小林秀雄のところへ剣術を習ひに行くと、剣術など勉強せずに、危きに近よらぬ工夫をしろ、それが剣術だと教へてくれる。これが小林流といふ文学だ。

 「生きてゐる人間なんて仕方のない代物だな。何を考へてゐるのやら、何を言ひだすのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解つた例しがあつたのか。鑑賞にも観察にも堪へない。其処に行くと死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故あゝはつきりとしつかりとしてくるんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ。してみると、生きてゐる人間とは、人間になりつゝある一種の動物かな」(無常といふこと)とくる。

 だから、歴史には死人だけしか現はれてこない。だから退ッ引きならぬ人間の相しか現はれぬし、動じない美しい形しか現はれない、と仰有る。生きてゐる人間を観察したり仮面をはいだり、罰が当るばかりだと仰有るのである。だから小林のところへ文学を習ひに行くと人生だの文学などは雲隠れして、彼はすでに奥義をきはめ、やんごとない教祖であり、悟道のこもつた深遠な一句を与へてくれるといふわけだ。

 生きてゐる人間などは何をやりだすやら解つたためしがなく鑑賞にも観察にも堪へない、といふ小林は、だから死人の国、歴史といふものを信用し、「歴史の必然」などといふことを仰有る。

 「歴史の必然」か。なるほど、歴史は必然であるか。

 西行がなぜ出家したか、などいふことをいくら突きとめようたつて、謎は謎、そんなところから何も出てきやしない、実朝がなぜ船をつくつたか、そんなことはどうでもいゝ、右大臣であつたことも、将軍であつたことも、問題ではない、たゞ詩人だけを見ればいゝのだと仰有る。

 だから坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。

 ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであらう、とんでもない、私は死後に愛読されたつてそれは実にたゞタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。

 生きてる奴は何をやりだすか分らんと仰有る。まつたく分らないのだ。現在かうだから次にはかうやるだらうといふ必然の筋道は生きた人間にはない。死んだ人間だつて生きてる時はさうだつたのだ。人間に必然がない如く、歴史の必然などといふものは、どこにもない。人間と歴史は同じものだ。たゞ歴史はすでに終つてをり、歴史の中の人間はもはや何事を行ふこともできないだけで、然し彼らがあらゆる可能性と偶然の中を縫つてゐたのは、彼らが人間であつた限り、まちがひはない。

 歴史には死人だけしか現はれてこない、だから退ッ引きならぬギリギリの人間の相を示し、不動の美しさをあらはす、などとは大嘘だ。死人の行跡が退ッ引きならぬギリギリなら、生きた人間のしでかすことも退ッ引きならぬギリギリなのだ。もし又生きた人間のしでかすことが退ッ引きならぬギリギリでなければ、死人の足跡も退ッ引きならぬギリギリではなかつたまでのこと、生死二者変りのあらう筈はない。

 つまり教祖は独創家、創作家ではないのである。教祖は本質的に鑑定人だ。教祖がちかごろ骨董を愛すといふのは無理がないので、すでに私がその碁に於いて看破した如く彼は天性の公式主義者であり、定石主義者であり、保守家であり、常識家であつて、死人はともかく死んでをり、もう足をすべらして墜落することがないから安心だが、生きた奴とくると、何をしでかすか分らず、教祖の如く何をしでかす魂胆がなくとも、足をすべらしてプラットホームから落つこちる、どこに伏兵がひそんでゐるか分らない。実にどうも生きるといふことはヤッカイだ。

 だから教祖の流儀には型、つまり公式とか約束といふものが必要で、死んだ奴とか歴史はもう足をすべらすことがないので型の中で料理ができるけれども、生きてる奴はいつ約束を破るか見当がつかないので、かういふ奴は鑑賞に堪へん。歴史の必然などといふ妖怪じみた調味料をあみだして、料理の腕をふるふ。生きてる奴の料理はいやだ、あんなものは煮ても焼いてもダメ、鑑賞に堪へん。調味料がきかない。

 あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。

 生きてる人間といふものは、(実は死んだ人間でも、だから、つまり)人間といふものは、自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない、人間はせつないものだ、然し、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようといふ、せつぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑りもする、信じもする、信じようとし思ひこまうとし、体当り、遁走、まつたく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、諸々の思想といふものがそこから生れて育つてきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにはあらゆる矛盾があり、不可決、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにゐられなくなつた棒キレみたいなものの一つが文学だ。

 人間は何をやりだすか分らんから、文学があるのぢやないか。歴史の必然などといふ、人間の必然、そんなもので割り切れたり、鑑賞に堪へたりできるものなら、文学などの必要はないのだ。

 だから小林はその魂の根本に於いて、文学とは完全に縁が切れてゐる。そのくせ文学の奥義をあみだし、一宗の教祖となる、これ実に邪教である。

 西行も実朝も地獄を見た。陰惨な罪業深い地獄、物悲しい優しい美しい地獄。そして西行の一生は「いかにすべき我心」また、孤独といふ得体の知れぬものについての言葉なき苦吟をやめたことがなかつたし、実朝は殺されたが然し実朝の心はこれを自殺と見たかも知れぬ、と言ふ。まさしく、その通りだ。邪教も亦、真理を説くか。璽光様が天照大神の生れ変りの如くに。

「西行はなぜ出家したか、その原因に就いて西行研究家は多忙なのであるが、僕には興味がないことだ。凡そ詩人を解するには、その努めて現はさうとしたところを極めるがよろしく、努めて忘れようとして隠さうとしたところを詮索したとて、何が得られるものでもない」(西行)

 そして近代文学といふ奴は仮面を脱げ、素面を見せよ、そんなことばかり喚いて駈けだして、女々しい毒念が方図もなくひろがつて、罰が当つてしまつたんだ、と仰有る。

 然り、詩人を解すには、詩を読むだけで沢山だ。こんなこともした、こんな一面もあつた、と詮索して同類発見を喜んだところで詩人を解したわけでもなく、まさしく詩を読むことだけが詩人を解す方法なのだ。小林は詩を解す、といふ。然り、鑑賞はそれだけでよい。鑑賞家といふものは。

 然し、こゝに作家といふものがある。彼の読書は学ぶのだ。学ぶとは争ふことだ。そして、作家にとつては、作品は書くのみのものではなく、作品とは又、生きることだ。小林が西行や実朝の詩を読んでゐるのも彼等の生きた翳であり、彼等が生きることによつて見つめねばならなかつた地獄を、小林も亦読みとることによつて感動してゐるのだ。

 仮面を脱げ、素面を見せよ、といふことはそれを作品の上に於いて行つたから罰が当つただけで、小説といふ作品の場合に於いては、作家は思想家であると同時に戯作者でなければならぬ。仮面を脱いで素面を見せることは小説ではない。これを小説だと思へば罰が当るのは是非もない。然し作家の私生活に於いて、作家は仮面をぬぎ、とことんまで裸の自分を見つめる生活を知らなければ、その作家の思想や戯作性などタカが知れたもので、鑑賞に堪へうる代物ではないにきまつてゐる。

 小説は(芸術は)自我の発見だといふ。自我の創造だといふ。作家が自分といふものを知つてしまへば、作品はそれによつて限定され、定められた通路しか通れなくなる。然し本当の小説といふものは、それを書き終るときに常に一つの自我を創造し、自我を発見すべきものだ、と、これは文学技師アンドレ・ジッド氏の御意見だ。ちなみにジッド氏は文学に通暁し、あらゆる技法を心得、縦横に知識を用ひ、術をつくし、ある時は型を破つて、小説をつくる技師であるが、本当の小説家だとは私は思つてゐない。ジッド氏が自身の小説に於いて、自我を創造、発見したか、私は疑問に思つてゐる。

 わが教祖、小林氏も芸術は自我の創造発見だと言ふのである。紙に向つた時には何もない。書くことによつて、創造され、見出されて行くものだ、と言ふのだ。私も大いに賛成である。

 然し、紙に向つて何もないといふことは自分に就いて何も知らないといふことではない。ある限度までは知つてゐる。自分といふものをある限度まで知悉しない人間が、小説を書ける筈のものではない。一応自分といふもの、又、人間といふものに通じてゐなくて、小説の書けるわけはないのだ。尚、そのうへに発見するのであり、創造するのだ。なぜなら、作家といふものは、今ある限度、限定に対して堪へ得ないといふことが、作家活動の原動力でもあるからだ。

 モオツァルトの作品は殆どすべて世間の愚劣な偶然な或ひは不正な要求に応じてあわたゞしい心労のうちになつたもので、予め目的を定め計画を案じて作品に熟慮専念するやうな時間はなかつたが、モオツァルトは不平もこぼさず、不正な要求に応じて大芸術を残した。天才は外的偶然を内的必然と観ずる能力が具はつてゐるものだ、と言ふ。それはモオツァルトには限らない。チエホフの戯曲も不正な要求に応じて数日にして作られ、近松の戯曲もさうだ。ドストエフスキーも借金に追はれて馬車馬の如く書きまくり、読者の嗜好に応じてスタヴロオギンの歩き道まで変へて行くといふ己れを捨てた凝り方だ。いかにも外的偶然を内的必然と化す能力が天才の作品を生かすものだ。

 然しながら、作品に就いて目的を定め計画を案じ熟慮専念する時間がなくとも、少くとも小説作者の場合に於いては、一応人間に通じてゐることは絶対の条件であり、人間通の裏附は自我の省察で保たれるもの、そして常に一つの作品を書き終つたところから、新らたに出発するものだ。一つの作品は発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとゞまつてはゐられず、不満と自己叛逆を起す。ふみとゞまつた時には作家活動は終りであり、制作の途中に於いても作家をして没頭せしめる力は限界をふみこし発見に自ら驚くことの新鮮なたのしさによる。

 生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた小林は、文学とは絶縁し、文学から失脚したもので、一つの文学的出家遁世だ。私が彼を教祖といふのは思ひつきの言葉ではない。

 彼はもう文学を鑑賞し詩人を解するだけだ。歴史の必然とか人間の必然といふ自分勝手な角度によつて、彼はもう文学や詩人と争ひ、格闘することがないのである。争ふとか格闘するといふことは、自分を偶然の方へ賭けることだから、彼はもう偶然などは俺にはいらないといふ悟りをひらいてゐるのだ。詩人のつとめて隠さうとし忘れようとしたものを暴くのは鑑賞のためや詩人を解するためではなく、自分の仮面をはがさうとする同じ働きが他へ向けられただけのことで、普遍的な真理といふやうなものを暴くんぢやない。仮面を脱ぐといふことも真理を暴くといふのぢやなくて、たゞさうせずにゐられぬからだといふやうな罰の当つた苦悩格闘、そんなものはもう小林には用はない。

 常に物が見えてゐる。人間が見えてゐる。見えすぎてゐる。どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。そして、見て、書いただけだ。それが徒然草といふ空前絶後の批評家の作品なのだと小林は言ふ。これはつまり小林流の奥義でもあり、批評とは見える眼だ、そして小林には人間が見えすぎてをり、どんな思想も意見も、見える目をくもらせず彼を動かすことはできない。彼は見えすぎる目で見て、鑑定したまゝを書くだけだ。

 私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。三流品だ。私はちつとも面白くない。私も一つ見本をださう。これはたゞ素朴きはまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。宮沢賢治の「眼にて言ふ」といふ遺稿だ。

だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つゞけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみぢの嫩芽(わかめ)と毛のやうな花に
秋草のやうな波を立て
あんなに青空から
もりあがつて湧くやうに
きれいな風がくるですな
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです

 半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だけれども、徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたといふ物の実相と、この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違ふのだ。

 思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目。そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見てゐやしない。つまり小林の必然といふ化け物だけしか見えやしない。平家物語の作者が見たといふ月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいふそんな月が一体そんなステキな月か。平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言ひたまへ。あんなものに心の動かぬ我々が罰が当つてゐるのだとは阿呆らしい。

 本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当つた奴でなければ、書けないものだ。思想や意見によつて動かされるといふことのない見えすぎる目などには、宮沢賢治の見た青ぞらやすきとほつた風などは見ることができないのである。

 生きてゐる奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリ/\のところを這ひまはつてゐる罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはさういふものだ。歴史の必然だの人間の必然などが教へてくれるものではなく、偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、その賭によつて見ることのできた自分だけの世界だ。創造発見とはさういふもので、思想によつて動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。

 美しい「花」がある、「花」の美しさといふものはない、などといふモヤモヤしたものではない。死んだ人間が、そして歴史だけが退ッ引きならぬぎりぎりの人間の姿を示すなどとは大嘘の骨張で、何をしでかすか分らない人間が、全心的に格闘し、踏み切る時に退ッ引きならぬぎり/\の相を示す。それが作品活動として行はれる時には芸術となるだけのことであり、よく物の見える目は鑑定家の目にすぎないものだ。

 文学は生きることだよ。見ることではないのだ。生きるといふことは必ずしも行ふといふことでなくともよいかも知れぬ。書斎の中に閉ぢこもつてゐてもよい。然し作家はともかく生きる人間の退ッ引きならぬギリギリの相を見つめ自分の仮面を一枚づつはぎとつて行く苦痛に身をひそめてそこから人間の詩を歌ひだすのでなければダメだ。生きる人間を締めだした文学などがあるものではない。

 小説は十九世紀で終つたといふ、こゝに於いて教祖はまさしく邪教であり、お筆先きだ。時代は変る、無限に変る。日本の今日の如きはカイビャク以来の大変りだ。別に大変りをしなくとも、時代は常に変るもので、あらゆる時代に、その時代にだけしか生きられない人間といふものがをり、そして人間といふものは小林の如くに奥義に達して悟りをひらいてはをらぬもので、専一に生きることに浮身をやつしてゐるものだ。そして生きる人間はおのづから小説を生み、又、読む筈で、言論の自由がある限り、万古末代終りはない。小説は十九世紀で終りになつたゾヨ、これは璽光様の文学的ゴセンタクといふものだ。

 人生とは銘々が銘々の手でつくるものだ。人間はかういふものだと諦めて、奥義にとぢこもり悟りをひらくのは無難だが、さうはできない人間がある。「万事たのむべからず」かう見込んで出家遁世、よく見える目で徒然草を書くといふのは落第生のやることで、人間は必ず死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまへといふやうなことは成り立たない。恋は必ず破れる、女心男心は秋の空、必ず仇心が湧き起り、去年の恋は今年は色がさめるものだと分つてゐても、だから恋をするなとは言へないものだ。それをしなければ生きてゐる意味がないやうなもので、生きるといふことは全くバカげたことだけれども、ともかく力いつぱい生きてみるより仕方がない。

 人生はつくるものだ。必然の姿などといふものはない。歴史といふお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらへて行くのだ。
小林にはもう人生をこしらへる情熱などといふものはない。万事たのむべからず、そこで彼はよく見える目で物を人間をながめ、もつぱら死相を見つめてそこから必然といふものを探す。彼は骨董の鑑定人だ。

 花鳥風月を友とし、骨董をなでまはして充ち足りる人には、人間の業と争ふ文学は無縁のものだ。小林は人間孤独の相と云ひ、地獄を見る、と言ふ。

あはれあはれこの世はよしやさもあらばあれ来む世もかくや苦しかるべき (西行)
花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける (西行)
風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな (西行)
ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄行方もなしといふもはかなし (実朝)
吹く風の涼しくもあるかおのづから山の蝉鳴きて秋は来にけり (実朝)

 秀歌である。たしかに人間孤独の相を見つめつゞけて生きた人の作品に相違なく、又、純潔な魂の見た風景であつたに相違ない。

 然し孤独を観ずるなどといふことが、いつたい人生にとつて何物であるのか。

 芸術は長し、人生は短しと言ふ。なるほど人間は死ぬ。然し作品は残る。この時間の長短は然し人生と芸術との価値をはかる物差とはならないものだ。作家にとつて大切なのは言ふまでもなく自分の一生であり人生であつて、作品ではなかつた。芸術などは作家の人生に於いてはたかゞ商品にすぎず、又は遊びにすぎないもので、そこに作者の多くの時間がかけられ、心労苦吟が賭けられ、時には作者の肉をけづり命を奪ふものであつても、作者がそこに没入し得る力となつてゐるものはそれが作者の人生のオモチャであり、他の何物よりも心を充たす遊びであつたといふ外に何物があるのか。そして又、それは「不正なる」取引によりたゞ金を得るための具でもあり、女に惚れたり浮気をしたりするためのモトデを稼ぐ商品であつた。

 余の作品は五十年後に理解せられるであらう。私はそんな言葉を全然信用してゐやしない。かりにアンリベイル先生はたしかにさう思ひこんでゐたにしたところで、芸術は長し人生は短し、そんなマジナヒみたいな文句を鵜呑みにし真にうけてゐるだけで、実生活では全然それを信じてゐないのが人の心といふものである。死んでしまへば人生は終りなのだ。自分が死んでも自分の子供は生きてゐるし、いつの時代にも常に人間は生きてゐる。然しそんな人間と、自分といふ人間は別なものだ。自分といふ人間は、全くたつた一人しかゐない。そして死んでしまへばなくなつてしまふ。はつきり、それだけの人間なんだ。
だから芸術は長しだなんて、自分の人生よりも長いものだつて、自分の人生から先の時間はこれはハッキリもう自分とは無縁だ。ほかの人間も無縁だ。

 だから自分といふものは、常にたつた一つ別な人間で、銘々の人がさうであり、歴史の必然だの人間の必然だのそんな変テコな物差ではかつたり料理のできる人間ではない。人間一般は永遠に存し、そこに永遠といふ観念はありうるけれども、自分といふ人間には永遠なんて観念はミヂンといへども有り得ない。だから自分といふ人間は孤独きはまる悲しい生物であり、はかない生物であり、死んでしまへば、なくなる。自分といふ人間にとつては、生きること、人生が全部で、彼の作品、芸術の如きは、たゞ手沢品中の最も彼の愛した遺品といふ外の何物でもない。

 人間孤独の相などとは、きまりきつたこと、当りまへすぎる事、そんなものは屁でもない。そんなものこそ特別意識する必要はない。さうにきまりきつてゐるのだから。仮面をぬぎ裸になつた近代が毒に当てられて罰が当つてゐるのではなく、人間孤独の相などといふものをほじくりだして深刻めかしてゐる小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当つてゐるのだ。

 自分といふ人間は他にかけがへのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、自分の人生を精いつぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。人間一般、永遠なる人間、そんなものゝ肖像によつて間に合はせたり、まぎらしたりはできないもので、単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。

 文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、人生の主題眼目は常にたゞ自分が生きるといふことだけだ。
良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたといふ兼好法師はどんな人間を見たといふのだ。自分といふ人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたつて何も見てゐやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力といふものが見えなければ。

 人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。なぜなら、死んでなくなつてしまふのだから。自分一人だけがさうなんだから。銘々がさういふ自分を背負つてゐるのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。

 小説なんて、たかゞ商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。第二の人生といふやうなものだ。有るものを書くのぢやなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、小説はいつも背のびをし、駈けだし、そして跳びあがる。だから墜落もするし、尻もちもつくのだ。

 美といふものは物に即したもの、物そのものであり、生きぬく人間の生きゆく先々に支へとなるもので、よく見える目といふものによつて見えるものではない。美は悲しいものだ。孤独なものだ。無慙なものだ。不幸なものだ。人間がさういふものなのだから。

 小林はもう悲しい人間でも不幸な人間でもない。彼が見てゐるのは、たかゞ人間の孤独の相にすぎないので、生きる人間の苦悩といふものは、もう無縁だ。そして満足してゐる。骨董を愛しながら。鑑定しながら。そして奥義をひらいて達観し、よく見えすぎる目で人間どもを眺めてゐる。思想にも意見にも動きやしない。だからもう生きてゐる人間どものやうに、何かわけの分らぬことをしでかすやうなことはないのだ。そのくせ彼は水道橋のプラットホームから落つこつたが、彼の見えすぎる目、孤独な魂は何と見たか。なにつまらねえ、たとへ死んだつて、オレ自身の心は自殺と見たつていゝぢやないか。なんでもねえや。
自殺なんて、なんだらう。そんなものこそ、理窟も何もいりやしない。風みたいに無意味なものだ。

 女のふくらはぎを見て雲の上から落つこつたといふ久米の仙人の墜落ぶりにくらべて、小林の墜落は何といふ相違だらう。これはたゞもう物体の落下にすぎん。

 小林秀雄といふ落下する物体は、その孤独といふ詩魂によつて、落下を自殺と見、虚無といふ詩を歌ひだすことができるかも知れぬ。

 然しまことの文学といふものは久米の仙人の側からでなければ作ることのできないものだ。本当の美、本当に悲壮なる美は、久米の仙人が見たのである。いや、久米の仙人の墜落自体が美といふものではないか。

 落下する小林は地獄を見たかも知れぬ。然し落下する久米の仙人はたゞ花を見ただけだ。その花はそのまゝ地獄の火かも知れぬ。そして小林の見た地獄は紙に書かれた餅のやうな地獄であつた。彼はもう何をしでかすか分らない人間といふ奴ではなくて教祖なのだから。人間だけが地獄を見る。然し地獄なんか見やしない。花を見るだけだ。