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Thursday, December 27, 2012

新幹線から見える風景


朝日新聞デジタル:どう考えたら 新幹線の三景 - ニュース


「どう考えたら 新幹線の三景」(静岡県 63歳男性)


暮れの新幹線。相当の混雑なので指定車両に移ってみた。ここも満席だったが、ふと見ると、座席に小さなバスケットが置いてあり中に小犬。隣に若い女性が座っていた。早速「ここ空いてますか」と尋ねてみた。すると、その女性は、「指定席券を買ってあります」と答えた。私は虚を突かれた思いがした。


改めて車内を見渡すと、多くの立っている大人の中、母親の隣で3歳ぐらいの男の子が座っている座席もある。あれも指定切符を買ってあるのだろう。


仕方なくいっぱいの自由席に戻ると、ここにも学童前と思われる子が親の隣に座っていた。懲りもせずにまた「ここ空いてますか」と尋ねると、母親は仕方なさそうに子どもをひざの上に乗せ、席を空けた。私はその座席で居心地の悪さを感じながら、この新幹線の中での三景をどう考えたらいいのか自問した。



老害などとは言わない。誰だっていずれ老人になる。それに老害というのは、もっと影響力の大きな人物に使うべき表現であり、年功序列の弊害を問題にするときにでも使えばいい。それよりも、わたしが気になったのはこのご老人の書き方のほうで、これは何も老人に限った話ではないと思った。


まず、このご老人は指定券を買っていないにも拘らず、空席を求めて指定車両に行っている。この時点ですでに非常識なのだが、それを「相当の混雑なので指定車両に移ってみた。」とまるで何かの災難に遭って致し方なく移動したかのように書いている。次に、小犬を連れている指定券を買った女性がそのように告げると、「私は虚を突かれた思いがした。」と記している。これまた、世間の常識に照らしてその女性の行動が異常であるかのような言い回しだ。もちろん、この女性は何も責められるべきところはない。


このご老人はその視界に同性である男性を入れようとしないので、女性、動物ときて、次は子供がその対象となる。子供連れの母子を指して「あれも指定切符を買ってあるのだろう。」と描写しているが、「あれ」という指示語は他者を見下しているときにも使われるのであり、実に尊大な態度に見える。最後の自由席に戻るくだりでも「仕方なく」「懲りもせずに」「母親は仕方なさそうに」「居心地の悪さ」などと書き連ね、挙げ句の果てに「この新幹線の中での三景をどう考えたらいいのか自問した。」と自身がたいそうなことを考えているかのように結んでいる。


つまることろ、この文章は自らの責任を徹底的に排除しているのだと思う。


「わたしは何も特別なことは言ってない」
「わたしは何も特別なことは求めていない」
「わたしは何も特別に悪いことはしていない」


といったふうに、何重にもバリケードが施されている。そのうえで、「老人には席を譲るものだ」という常識を無限定に当て嵌め、他者を論難している。これは実に厄介な話だ。端的に言ってこのご老人は非常識であるのだが、それでも、こういった言い回しを駆使して世間の常識を真ん中に据えれば、一応の形式は整ってしまう。もちろん、その非常識ぶりを隠し通せるものではないのだが、それでも、じゅうぶんに怖ろしいことだ。なぜなら、この老人にいくらかの権力なり権威なりが伴っていたら、その厚顔無恥な要求がまかり通ってしまう可能性があるのだから。


そして、こういった自己責任を排除した言い回しがある一定の効果を持つことを、多くの人が知ってる。誰もそれを正面から認めることがないだけで、老若男女を問わず、こういった言い方を便利に使っているかもしれない。したがって、これを「老害」と痛罵するだけでは片手落ちになるのではないかと思う。もし、こういった非常識さを抑制しているのが会社や学校であったとするならば、今後、わたしたちは別の仕組みをゼロから作る必要に迫られるかもしれない。暴走するのは老人だけだと誰が断言できるだろうか。

Wednesday, December 26, 2012

The table was covered with snow.

英語シノニムの語法 (1976年)
英語シノニムの語法 (1976年)


(P.194)

「・・・でおおわれる」というとき、3つのシノニム表現が考えられるが、in はあとで述べるとして、Wood は「おおわれる」という受身的色彩の濃い場合は by, 「おおわれている」という状態をいう場合は with であると説明している。by は(無生物を含む)動作主(agent)、with は道具(instrument)を表す前置詞を考えて、A is covered by B は B covers A の受身形であり、A is covered with B は A is covered with B by C の by C が省略された表現とみて、C covers A with B の受身形とみなすことができる。


しかし、後者の場合、


The table was covered with the cloth.


では、状態と一時的行為ということは別にして、by her のような動作主を想定することができるが、


The table was covered with snow.


のような例では不可能である。


そこで、A is covered with B のような表現は、一部で説かれているように、むりに、能動形→受動形といった派生を考える必要はなく、それぞれ独立した表現と考えるのが妥当である。「by と with」の項で、「元来『with + 事物』で道具で示したものが擬人化して、人と同じように動作主を表すようになったからだと思われる」としたのはその意味であり、「by のほうが動詞によって程度の差はあるが、多少とも斬新な表現効果を表すものであると考えてよいだろう。」と述べたのは、with の代わりにこの by の使用が近来目立って増えてきたからである。


Wood が先の例として、


The ground was covered with snow.


なる例をあげているが、同じような状況で次の例があった。


the Tanzawa Ranges in Kanagawa prefecture, where the peaks were still covered by snow that had fallen only one week prevously.

(神奈川県の丹沢連峰、その峰々はほんの1週間ばかり前に降ったばかりの雪でおおわれていた。)

- J.Kirkup, Japan Behind the Fan


この例でもって、Wood の説は妥当ではないことは明かであろう。

Sunday, December 16, 2012

Pygmalion

会話を楽しむ (岩波新書)
会話を楽しむ (岩波新書)


(P.87)
つまりレッスンで上達できるのは「会話」の端っこの部分でしかない。むしろどうでもいいところなのだ。しかし世間一般では会話を、レッスンで学べると思い込んでいる。


映画『マイ・フェア・レディ』をごらんの人は多いと思うが、あのなかに出るロンドンの下町の花売娘は、はじめはひどい下町訛り(コックニー)を喋る。そんな娘に、言語学者のヒギンズ教授は会話レッスンをする。半年かそこからで、娘は上流階級のレディとして通用するほど見事な会話をするようになる。それを実証するために彼女を上流人の集まる大パーティに出席させると、人々はこの花売娘をどこかの王女様だと思い込む。これはまさに、レッスンで会話が上達する話の見本であろう。


しかし大嘘である。ヒギンズ教授はこの花売娘に「会話」をレッスンしたのではなく、「口真似」を仕込んだのだ。発音の矯正から言い方や動作まで、すべて上流の連中の物真似をさせたにすぎない。そしてたぶん三十か五十のきまり文句を覚えさせただけであった。それでもう下町娘が上流婦人として通じるのだとすれば、英国の上流階層の会話なんて、ただ決まり文句のやりとりで終わるものだと、逆に、そっちのほうに皮肉な目を向けたくなる。


原作者バーナード・ショーの原作の題名は『ピグマリオン』("Pygmalion")であり、ピグマリオンはギリシャ神話に出てくる彫刻家の名である。彼は自分の彫った女の像を恋してしまう。愛の神アフロディテはその女子像に生命を吹き込んでやる、そして彫刻家ピグマリオンは彼女と結婚する。このギリシャ神話を元にして、バーナード・ショーが劇を書いた。それはひとりの言語学者がロンドンの下町の貧しい花売娘を教育して上流階級の婦人にと再生させ、その彼女と結婚するという筋であり、この大筋にもとづいおて、ミュージカルもその映画もつくられている。しかし私の会話観からすえば、話が逆となる。


まだ花売娘だったころの彼女は、実に生きいきと自身の会話を喋った。それは生まれてから身についた生きた言葉であったからだ。ところがヒギンズ教授に教育されて上品な身振り口つきを覚え込んだ彼女は、もはや一個の機械人形にすぎない。実につまらないイツワリの存在であり、あの大パーティは会話も素振りもダンスも、すべて「彼女ではない」。いわば死んだ存在だ。


あのヒギンズ教授がしまいにはこの娘に恋してしまうのも、自分が仕込んで上流婦人になった娘に惚れたのではなくて、仕込んでも仕込みきれなかった下町娘の、その「生き身」の美しさに惚れ込んだのだ。この点は、彼女がヒギンズ教授の言うなりに「お上品女性」になったとしたら、と考えてみれば、よく分かる。原作者のバーナード・ショーは大筋を美女再生物語としつつ、裏側では英国の上流階級のおろかさをからかったのだ、と私は考えている。その風刺性はミュージカルや映画になった作品では、かなり薄まってしまっている。

Monday, December 10, 2012

Gattaca




- What is this?
- New policy.
- Flight got you nervous?
- There's a problem, Lamar.
- I never did tell you about my son, did I? He's a big fan of yours.
- Just remember that I was as good as any and better than most.
- He wants to apply here.
- I could have gone up and back and nobody would have been the wiser
- Unfortunately, my son's not all that they promised. But then, who knows what he could do? Right?


- For future reference, right-handed men don't hold it with their left. Just one of those things.
- You're going to miss your flight, Vincent.


(Vincent, monologue)

- For someone who was never meant for this world,
- I must confess, I'm suddenly having a hard time leaving it.
- Of course, they say every atom in our bodies was once part of a star.

- Maybe I'm not leaving. Maybe I'm going home.

On Conversation

On Conversation / Ring Lardner


The other night I happened to be comeing back from Wilmington, Del. to wherever I was going and was setting in the smokeing compartment or whatever they now call the wash room and overheard a conversation between two fellows who we will call Mr. Butler and Mr. Hawkes. Both of them seemed to be from the same town and I only wished I could repeat the conversation verbatim but the best I can do is report it from memory. The fellows evidently had not met for some three to fifteen years as the judges say.

“Well,” said Mr. Hawkes, “if this isn’t Dick Butler!”
“Well,” said Mr. Butler, “if it isn’t Dale Hawkes.”
“Well, Dick,” said Hawkes, “I never expected to meet you on this train.”
“No,” replied Butler. “I genally always take Number 28. I just took this train this evening because I had to be in Wilmington today.”
“Where are you headed for?” asked Hawkes.
“Well I am going to the big town,” said Butler.
“So am I, and I am certainly glad we happened to be in the same car.”
“I am glad too, but it is funny we happened to be in the same car.”
It seemed funny to both of them but they successfully concealed it so far as facial expression was conserned. After a pause Hawkes spoke again:
“How long since you been back in Lansing?”
“Me?” replied Butler. “I ain’t been back there for 12 years.”
“I ain’t been back there either myself for ten years. How long since you been back there?”
“I ain’t been back there for twelve years.”
“I ain’t been back there myself for ten years. Where are you headed for?”
“New York,” replied Butler. “I have got to get there about once a year. Where are you going?”
“Me?” asked Hawkes. “I am going to New York too. I have got to go down there every little while for the firm.”
“Do you have to go there very often?”
“Me? Every little while. How often do you have to go there?”
“About once a year. How often do you get back to Lansing?”
“Last time I was there was ten years ago. How long since you was back?”
“About twelve years ago. Lot of changes there since we left there.”
“That’s the way I figured it. It makes a man seem kind of old to go back there and not see nobody you know.”
“You said something. I go along the streets there now and don’t see nobody I know.”
“How long since you was there?”
“Me?” said Hawkes. “I only get back there about once every ten years. By the way what become of old man Kelsey?”
“Who do you mean, Kelsey?”
“Yes, what become of him?”
“Old Kelsey? Why he has been dead for ten years.”
“Oh, I didn’t know that. And what become of his daughter? I mean Eleanor.”
“Why Eleanor married a man named Forster or Jennings or something like that from Flint.”
“Yes, but I mean the other daughter, Louise.”
“Oh, she’s married.”
“Where are you going now?”
“I am headed for New York on business for the firm.”
“I have to go there about once a year myself—for the firm.”
“Do you get back to Lansing very often?”
“About once in ten or twelve years. I hardly know anybody there now. It seems funny to go down the street and not know nobody.”
“That the way I always feel. It seems like it was not my old home town at all. I go up and down the street and don’t know anybody and nobody speaks to you. I guess I know more people in New York now than I do in Lansing.”
“Do you get to New York often?”
“Only about once a year. I have to go there for the firm.”
“New York isn’t the same town it used to be neither.”
“No, it is changeing all the time. Just like Lansing, I guess they all change.”
“I don’t know much about Lansing any more. I only get there about once in ten or twelve years.”
“What are you reading there?”
“Oh, it is just a little article in Asia. They’s a good many interesting articles in Asia.”
“I only seen a couple copies of it. This thing I am reading is a little article on ‘Application’ in the American.”
“Well, go ahead and read and don’t let me disturb you.”
“Well I just wanted to finish it up. Go ahead and finish what you’re reading yourself.”
“All right. We will talk things over later. It is funny we happened to get on the same car.”

Saturday, December 8, 2012

忘れられた国と「○○はオレの嫁」

忘れられた国ニッポン
忘れられた国ニッポン


なかなか辛辣な内容だった。日本文学を研究するために長きに渡って日本に滞在し、また、奥さんも日本人女性ということで、普通に考えれば知日派=日本は素晴らしいという論調を期待するところだが、タイトルが示すようにその内容は必ずしも明るいものではない。これは日本を愛するがゆえの苦言なのだろう。大雑把にその骨子を抜き出せば以下のようになる。


・日本は明治時代に過去を捨てることで近代国家になった。
・しかし、それに夢中になるあまり、過去との断絶が生まれているのではないか。
・明治時代の小説はそれほど良いものではない。
・海外からの「輸入品」ばかりで、実際には中身のないシロモノも多い。
・私小説は日本人の読者に悪い影響を与えた。
・著者のパーソナリティに共感するという読み方になり、作品そのものへの批評がない。
・批評なくして、良質な作品は生まれない。
・現代作家の村上春樹なども、日本人が思うほどに海外では読まれてない。


個人的に最も納得したのは私小説のところだ。確かに、日本人は著者を好きになることで作品「も」好きになるというパターンが多い。そして、これはアイドルなどを応援する態度とそう大きくは変わらない。




(デニス・キーン「忘れられた国ニッポン」、P.167)


私小説では、作者の存在を強調しているため、作者に共感しなければ読めない。太宰を好きにならなければ、太宰の作品を読む気がしないのである。もう少し正確に言えば、著者=主人公あるいは語り手だから、読者はまず主人公を好きになるか、あるいは主人公を同一化する。そしてつぎに作者を好きになる。これは一流の文学では、考えられない読み方である。シェークスピアの『リア王』を読むとき、作者に共感するかどうかは問題にならない。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読んでも、読者は主人公にはならない。読者が主人公と同一化する読み方をするとしたら、この作品は若い娘にしか読めないことになってしまう。ところが実際に、この作品を読んでいるのは中年以上の男女である。


(中略)


シェークスピアの実生活がどのようなものであったかを問題にする読者はいない。リア王という主人公を好きか嫌いかも関係ない。この点では、『リア王』は日本の私小説とは大きく違う。太宰が好きだから、太宰の告白を読みたい。告白を読むと、親しみをおぼえてますます好きになる。よい作品を書いたから親しみを感じるのではなく、作品を通して作者に親しみを感じる。一度親しみを感じたら、その作者が何を書いてもかまわない。あばたもえくぼに見える。作者と友人であるかのような、あるいは恋人であるかのような錯覚に陥る。これが日本の文学、ことに、戦後文学の一般的な読まれ方になっている。



太宰好きなかたには申し訳ないのだけど、デニス・キーンの指摘はそれほど間違っていないと思う。いや、太宰に限らず、どの作家に対してもこうなのかもしれない。また、作家だけではなく、漫画家、映画監督、芸能人などなど、すべてにおいて、こうなのかもしれない。なぜなら、「もしかしたら、○○のことを好きな人もいるだろうから、批判的なことは言わないでおこう」と考えて口をつぐむことはよくあるからだ。批評を批評として受け取ってもらえない。この人は「わたしの大事な人の悪口を言う人だ」となってしまう。だから、批評がまったく生まれない。しかしながら、この「わたしの大事な人」というのは、オタクが冗談で口にする「○○はオレの嫁」とそんなに変わらないんじゃないだろうか。いや、もっと言えば、「○○はオレの嫁」は最初から軽口なので、こちらのほうが害は少ないかもしれない。


でも、「これはさすがにどうなんだろう・・・」という本音が消えるわけではないから、そういったものが匿名の空間などで溢れかえってしまう。すると、匿名の空間はまともな意見が少ない場所だと考えられているので、批評に対するネガティブなイメージがさらに増幅される。これは悪循環だと思う。本来であれば、匿名の空間以外でも批評が行われるべきであって、たとえ、それが「わたしの大事な人」に向けられた批判であっても、きちんと理に適っていれば、それでいいはずなのだ。もちろん、間違っていれば、反駁してもいい。いずれにせよ、そのほうが風通しが良い。


上岡隆太郎は「シロウト芸とは私生活を切り売りにすることで、そして、日本人はそういった芸のほうが好きなのだ」と言っていたけども、わたしはあれは正しい観察だと思う。日本では芸を磨いても、あまり見てもらえない。キャラクター勝負になっている。ここ最近、外務省はクール・ジャパンとしてコンテンツの輸出を考えていたらしいけども、「私生活の切り売り」がメインコンテンツになっている国から「輸出品」が生まれるわけがない。外国人たちが日本に住む芸能人の私生活などに興味を持つわけがないし、また、そもそも、そこに暮らしていないのだから興味の持ちようがない。もちろん、クール・ジャパンも実際には海外に売り込む気などさらさらなくて、単に、外務省が広告屋と組んでキャンペーンを打つだけの「内需拡大」なのだとすれば納得がいく。もし、そうなのだとしたら、開催するつもりのないオリンピックの招致活動や自動車産業、家電産業を支えるためのエコポイントと同じなのだろう。


ここはブログなので遠慮なく書かせてもらえば、やはり、鑑賞する側の質が作り手の質を支える部分というのは少なからずあるわけで、お客が低いレベルで満足してしまうならば、それに合わせて作り手が安上がりに作って終わりにするのは当然なのだ。「日本映画がダメになったのは石原裕次郎からだ」という意見があるらしいけど、それは間違っていないのかもしれない。それほど演技もうまくなく、単なるキャラクター勝負で、しかも、それが大物として扱われてしまう。でも、わたしたちは石原裕次郎の代表作品をどれくらい知っているのだろうか。心に残る演技として、何かひとつでもその場面を挙げられるだろうか。有名なセリフが何かあっただろうか。


いずれにしても、「批評のないところから良質なコンテンツが生まれることはない」というのがデニス・キーンさんの意見であって、それがすべて正しいとは言わないまでも、批評がまったくないのはある意味で不幸なことだと思う。せめて作品単位で考えるようになってくれると気分的にも楽なのだけど、まぁ、おそらく、無理なんだろう。日本のコンテンツ制作能力は高かったのかもしれないが、でも、今後はもう下がるいっぽうで、せっかくの地デジも何も、すべて宝の持ち腐れで終わるのではないだろうか。そして、これは作り手ばかりが責められるべき問題ではない。責任の一端は受け手のほうにもある。目の肥えた観客がいなければ、良い作品は生まれない。広い裾野のないところに高い山は生まれない。

Monday, December 3, 2012

Occam's Razor

House :season1-3 Occam's Razor


Chase: She’s weird, isn’t she?
Foreman: Bad idea.
Chase: What?
Foreman: Bad idea. You work with her.
Chase: What did I say? Is “weird” some new ghetto euphemism for sexy, like “bad” is good and “phat” is good? Then what the hell does “good” mean?
Foreman: “Ghetto euphemism”? You don’t think she’s hot?
Chase: No.
Foreman: Wow, then you’re brilliant. And I am using “brilliant” as an euphemism.
Chase: Obviously, the girl is hot. You, you’re not talking about her aesthetics, you’re talking about if I want to jump her. I don’t.
Foreman: Brilliant. Your Epstein Barr is ready.


(日本語版のセリフ)


チェイス「彼女、変わってるよな。」
フォアマン「やめとけ。」
チェイス「は?」
フォアマン「やめておけ。同僚だぞ。」
チェイス「おい、ちょっと待てよ。じゃあ、何かい、変わってるってのは黒人特有の婉曲表現によるとセクシーって意味になるのか? じゃあ、セクシーの意味は?」
フォアマン「ごまかそうとしているな。惚れたのか?」
チェイス「まさか。」
フォアマン「あぁ、お前は立派なやつだ。今のは婉曲表現だからな。」
チェイス「僕が彼女に性的魅力を感じて飛びつきたいか、知りたいんだろ? 答えはノーだ。」
フォアマン「わかったよ。」


面白いと思ったところ。


You work with her.

「同僚だぞ。」


これ、「伝わる英語表現法」にも出てくるんだけど、日本語の漢語は、英語にすると「主語+動詞」で表すことがあるってやつですね。I go to school. 「学生です。」とか、そこらへんと同じ。


Foreman: “Ghetto euphemism”? You don’t think she’s hot?

フォアマン「ごまかそうとしているな。惚れたのか?」


ここはそのまま訳さずに二人のやりとりを再現してるんだろうか。否定文で尋ねるのは反語的なニュアンスなのかな。(どうだったっけ?


Foreman: Wow, then you’re brilliant. And I am using “brilliant” as an euphemism.

フォアマン「あぁ、お前は立派なやつだ。今のは婉曲表現だからな。」


euphemisms は「婉曲表現」としか訳しようがないのだろうけど、日本語にするとなんだか堅いですよね。