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Saturday, December 8, 2012

忘れられた国と「○○はオレの嫁」

忘れられた国ニッポン
忘れられた国ニッポン


なかなか辛辣な内容だった。日本文学を研究するために長きに渡って日本に滞在し、また、奥さんも日本人女性ということで、普通に考えれば知日派=日本は素晴らしいという論調を期待するところだが、タイトルが示すようにその内容は必ずしも明るいものではない。これは日本を愛するがゆえの苦言なのだろう。大雑把にその骨子を抜き出せば以下のようになる。


・日本は明治時代に過去を捨てることで近代国家になった。
・しかし、それに夢中になるあまり、過去との断絶が生まれているのではないか。
・明治時代の小説はそれほど良いものではない。
・海外からの「輸入品」ばかりで、実際には中身のないシロモノも多い。
・私小説は日本人の読者に悪い影響を与えた。
・著者のパーソナリティに共感するという読み方になり、作品そのものへの批評がない。
・批評なくして、良質な作品は生まれない。
・現代作家の村上春樹なども、日本人が思うほどに海外では読まれてない。


個人的に最も納得したのは私小説のところだ。確かに、日本人は著者を好きになることで作品「も」好きになるというパターンが多い。そして、これはアイドルなどを応援する態度とそう大きくは変わらない。




(デニス・キーン「忘れられた国ニッポン」、P.167)


私小説では、作者の存在を強調しているため、作者に共感しなければ読めない。太宰を好きにならなければ、太宰の作品を読む気がしないのである。もう少し正確に言えば、著者=主人公あるいは語り手だから、読者はまず主人公を好きになるか、あるいは主人公を同一化する。そしてつぎに作者を好きになる。これは一流の文学では、考えられない読み方である。シェークスピアの『リア王』を読むとき、作者に共感するかどうかは問題にならない。ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』を読んでも、読者は主人公にはならない。読者が主人公と同一化する読み方をするとしたら、この作品は若い娘にしか読めないことになってしまう。ところが実際に、この作品を読んでいるのは中年以上の男女である。


(中略)


シェークスピアの実生活がどのようなものであったかを問題にする読者はいない。リア王という主人公を好きか嫌いかも関係ない。この点では、『リア王』は日本の私小説とは大きく違う。太宰が好きだから、太宰の告白を読みたい。告白を読むと、親しみをおぼえてますます好きになる。よい作品を書いたから親しみを感じるのではなく、作品を通して作者に親しみを感じる。一度親しみを感じたら、その作者が何を書いてもかまわない。あばたもえくぼに見える。作者と友人であるかのような、あるいは恋人であるかのような錯覚に陥る。これが日本の文学、ことに、戦後文学の一般的な読まれ方になっている。



太宰好きなかたには申し訳ないのだけど、デニス・キーンの指摘はそれほど間違っていないと思う。いや、太宰に限らず、どの作家に対してもこうなのかもしれない。また、作家だけではなく、漫画家、映画監督、芸能人などなど、すべてにおいて、こうなのかもしれない。なぜなら、「もしかしたら、○○のことを好きな人もいるだろうから、批判的なことは言わないでおこう」と考えて口をつぐむことはよくあるからだ。批評を批評として受け取ってもらえない。この人は「わたしの大事な人の悪口を言う人だ」となってしまう。だから、批評がまったく生まれない。しかしながら、この「わたしの大事な人」というのは、オタクが冗談で口にする「○○はオレの嫁」とそんなに変わらないんじゃないだろうか。いや、もっと言えば、「○○はオレの嫁」は最初から軽口なので、こちらのほうが害は少ないかもしれない。


でも、「これはさすがにどうなんだろう・・・」という本音が消えるわけではないから、そういったものが匿名の空間などで溢れかえってしまう。すると、匿名の空間はまともな意見が少ない場所だと考えられているので、批評に対するネガティブなイメージがさらに増幅される。これは悪循環だと思う。本来であれば、匿名の空間以外でも批評が行われるべきであって、たとえ、それが「わたしの大事な人」に向けられた批判であっても、きちんと理に適っていれば、それでいいはずなのだ。もちろん、間違っていれば、反駁してもいい。いずれにせよ、そのほうが風通しが良い。


上岡隆太郎は「シロウト芸とは私生活を切り売りにすることで、そして、日本人はそういった芸のほうが好きなのだ」と言っていたけども、わたしはあれは正しい観察だと思う。日本では芸を磨いても、あまり見てもらえない。キャラクター勝負になっている。ここ最近、外務省はクール・ジャパンとしてコンテンツの輸出を考えていたらしいけども、「私生活の切り売り」がメインコンテンツになっている国から「輸出品」が生まれるわけがない。外国人たちが日本に住む芸能人の私生活などに興味を持つわけがないし、また、そもそも、そこに暮らしていないのだから興味の持ちようがない。もちろん、クール・ジャパンも実際には海外に売り込む気などさらさらなくて、単に、外務省が広告屋と組んでキャンペーンを打つだけの「内需拡大」なのだとすれば納得がいく。もし、そうなのだとしたら、開催するつもりのないオリンピックの招致活動や自動車産業、家電産業を支えるためのエコポイントと同じなのだろう。


ここはブログなので遠慮なく書かせてもらえば、やはり、鑑賞する側の質が作り手の質を支える部分というのは少なからずあるわけで、お客が低いレベルで満足してしまうならば、それに合わせて作り手が安上がりに作って終わりにするのは当然なのだ。「日本映画がダメになったのは石原裕次郎からだ」という意見があるらしいけど、それは間違っていないのかもしれない。それほど演技もうまくなく、単なるキャラクター勝負で、しかも、それが大物として扱われてしまう。でも、わたしたちは石原裕次郎の代表作品をどれくらい知っているのだろうか。心に残る演技として、何かひとつでもその場面を挙げられるだろうか。有名なセリフが何かあっただろうか。


いずれにしても、「批評のないところから良質なコンテンツが生まれることはない」というのがデニス・キーンさんの意見であって、それがすべて正しいとは言わないまでも、批評がまったくないのはある意味で不幸なことだと思う。せめて作品単位で考えるようになってくれると気分的にも楽なのだけど、まぁ、おそらく、無理なんだろう。日本のコンテンツ制作能力は高かったのかもしれないが、でも、今後はもう下がるいっぽうで、せっかくの地デジも何も、すべて宝の持ち腐れで終わるのではないだろうか。そして、これは作り手ばかりが責められるべき問題ではない。責任の一端は受け手のほうにもある。目の肥えた観客がいなければ、良い作品は生まれない。広い裾野のないところに高い山は生まれない。