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Sunday, December 16, 2012

Pygmalion

会話を楽しむ (岩波新書)
会話を楽しむ (岩波新書)


(P.87)
つまりレッスンで上達できるのは「会話」の端っこの部分でしかない。むしろどうでもいいところなのだ。しかし世間一般では会話を、レッスンで学べると思い込んでいる。


映画『マイ・フェア・レディ』をごらんの人は多いと思うが、あのなかに出るロンドンの下町の花売娘は、はじめはひどい下町訛り(コックニー)を喋る。そんな娘に、言語学者のヒギンズ教授は会話レッスンをする。半年かそこからで、娘は上流階級のレディとして通用するほど見事な会話をするようになる。それを実証するために彼女を上流人の集まる大パーティに出席させると、人々はこの花売娘をどこかの王女様だと思い込む。これはまさに、レッスンで会話が上達する話の見本であろう。


しかし大嘘である。ヒギンズ教授はこの花売娘に「会話」をレッスンしたのではなく、「口真似」を仕込んだのだ。発音の矯正から言い方や動作まで、すべて上流の連中の物真似をさせたにすぎない。そしてたぶん三十か五十のきまり文句を覚えさせただけであった。それでもう下町娘が上流婦人として通じるのだとすれば、英国の上流階層の会話なんて、ただ決まり文句のやりとりで終わるものだと、逆に、そっちのほうに皮肉な目を向けたくなる。


原作者バーナード・ショーの原作の題名は『ピグマリオン』("Pygmalion")であり、ピグマリオンはギリシャ神話に出てくる彫刻家の名である。彼は自分の彫った女の像を恋してしまう。愛の神アフロディテはその女子像に生命を吹き込んでやる、そして彫刻家ピグマリオンは彼女と結婚する。このギリシャ神話を元にして、バーナード・ショーが劇を書いた。それはひとりの言語学者がロンドンの下町の貧しい花売娘を教育して上流階級の婦人にと再生させ、その彼女と結婚するという筋であり、この大筋にもとづいおて、ミュージカルもその映画もつくられている。しかし私の会話観からすえば、話が逆となる。


まだ花売娘だったころの彼女は、実に生きいきと自身の会話を喋った。それは生まれてから身についた生きた言葉であったからだ。ところがヒギンズ教授に教育されて上品な身振り口つきを覚え込んだ彼女は、もはや一個の機械人形にすぎない。実につまらないイツワリの存在であり、あの大パーティは会話も素振りもダンスも、すべて「彼女ではない」。いわば死んだ存在だ。


あのヒギンズ教授がしまいにはこの娘に恋してしまうのも、自分が仕込んで上流婦人になった娘に惚れたのではなくて、仕込んでも仕込みきれなかった下町娘の、その「生き身」の美しさに惚れ込んだのだ。この点は、彼女がヒギンズ教授の言うなりに「お上品女性」になったとしたら、と考えてみれば、よく分かる。原作者のバーナード・ショーは大筋を美女再生物語としつつ、裏側では英国の上流階級のおろかさをからかったのだ、と私は考えている。その風刺性はミュージカルや映画になった作品では、かなり薄まってしまっている。